『50歳からの地域デビュー応援講座』(2012年7月〜9月)の講演録を公開しました
細内所長が、栃木県労働者福祉センターにて「地域デビュー」の講義をしました
そして『50歳からの地域デビュー応援講座』<5回シリーズ>のダイジェスト版が栃木県労働者福祉センターから公開されましたので、当ホームページでも紹介します
☆当講座の講義内容は、次の通り
講座ポスターは、こちらから
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関連書籍は、こちらから
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講座1回目 「今こそ、地域デビューのとき」
講座2回目 「地域への関わり方」
講座3回目 「地域再発見、芸術文化、スポーツでまちづくり」
講座4回目 「キャリアを活かして地域に貢献」
講座5回目 「第2のキャリアステージは地域にあり」
以上、当講義録をご覧ください。
☆地域コミュニティとアソシエーションに関連して一言
☆細内所長のふるさと・栃木県宇都宮市はかって『版画のまち』だった☆
大正モダン、大正デモクラシーの流れから始まった栃木県河内郡姿川村(戦後昭和30年の大合併で宇都宮市になる)の版画誌『村の版画』は、姿川村在住の創作版画家・川上澄生30歳(当時宇都宮中学の英語教師)が技術面でアドバイスしながら参画した日本創作版画初のコミュニティ版画誌(姿川村の姿川尋常高等小学校教師(創刊時:松本家康37歳、池田信吾32歳、篠崎喜一郎25歳、野澤岩蔵35歳、岩上清三郎23歳の教師5人と川上澄生による6人からなるアソシエーション)でした。そして、それは大正時代に姿川村の若い教師らのによって巻き起こった新しい地域文化の一つでした。
注)アソシエーションとは、共通の目的(姿川村の創作版画誌を造る)を持って、自主的・計画的に組織された団体のこと
その後、宇都宮では、川上澄生を顧問、会長に仰ぎ、旧制宇都宮中学では戦前に創作版画の同人誌「刀」(旧制中学の生徒らによるクラブ)を、戦後は宇都宮女子高校で同人誌「鈍刀」(はじめはクラブから、そして刀の教え子たちも参加してアソシエーションに発展する)を発行し、そして昭和36(1961)年に宇都宮市にある栃木県立図書館では館長はじめ、県庁職員を中心に「版芸(ばんげい)」(その後民間人も参加し、アソシエーションに発展)が発足しました。どこもおおむね顔の見える関係が維持できる20人ほどがその正会員となりました。原則2か月に一度、会員自らによる創作版画誌を発行しました。川上澄生も毎回各号に彼自身の作品を寄せてアドバイスを行いました。
とりわけ「版芸(ばんげい)」は1961年から40年間も続きました(事務局の赤間さんや同人会員の高齢化により第289号で終刊?当時日本で最も継続したコミュニティ版画誌の一つになりました)。
こうしてかって「版画のまちであった宇都宮」は、1972年川上澄生の逝去によりその求心力を失い、創作版画の同人誌は次々と廃刊に追い込まれ、創作版画による地域コミュニティへの文化的寄与や地域の誇りが徐々に失われていきました。
人の魅力もそうですが、地域コミュニティの魅力は、こうした地道な文化・芸術活動から生まれてきます。
(敬称略)
注)地域コミュニティとは、共通の目的はないが、同じ場所や同じ地域に住んだり、共通の風俗・文化などで”人と人がつながり”あったりする共同体のこと。
⇒詳しくは、こちらを参照
※宇都宮美術館訪問時に許可を得て撮影
*この『村の版画』(大正14年1月創刊〜昭和9年の第19号で終刊)は、当時栃木県河内郡姿川村の姿川尋常高等小学校(現姿川中央小学校、細内所長も同校卒業)の教員ら(「村の版画社」という一つのアソシエーションを結成)が中心となって大正時代の末期(大正14年ころ)から昭和の初め(昭和9年ころ)までに制作したもので、川上澄生(当時宇都宮中学校英語の教師)が主に彼らの技術的な指導にあたりました。当時横浜生まれの川上澄生の家は、間借りで現在の宇都宮市郊外、当時姿川村西川田1079番地の日光線鶴田駅前(川上澄生は鶴田郵便局の隣接地にあった下宿先を朴花居と称する)にありました(26歳から宇都宮中学英語教諭心得)。
細内所長も、かつて川上澄生と同じ町内会に住んでいました。しかし、そこに彼の記念碑が建っていないのはとても残念でなりません。彼の創作版画家としての代表作は、ここ宇都宮市郊外の鶴田駅前にあった朴花居から生まれたからです。
詳しくはこちらを参照⇒http://cbhakase.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-a71d.html
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